パラリンピックの意味
1960年からパラリンピックが開催されている。
これはオリンピックとペアで開催され、今では多数の国々が
参加している。
こういった障害者たちによるスポーツイベントに対して、人々は
どういった感情を持っているのだろう。
確かに、健常者に負けないくらいの鍛錬と努力をして、素晴らしい記録を
達成する姿に感動する人がほとんどだ。
障害を持っている人の努力に頭の下がる思いだ。
しかし、最近私は、このイベントに対する見方に、変化がきている。
それは、参加国に対する違和感だ。
有名な選手や、強い選手が多い国を見てみると、先進国がほとんどだ。
アメリカ、中国、ロシアなどの先進国が、目につき後進国はほとんど
数人の参加人数だ。
これは、どういうことか。
障害者が競技に参加するには、特殊な補助器具が必要となる。
すなわち、その器具の性能がその選手の身体的能力に影響を与えるのは
明らかである。
資金的にも、研究者の数でも先進国が有利なのは、言うまでもない。
結論から言うと、パラリンピックは、その国の工業的技術力を競う場に
なっている。
その選手の個人的な能力よりも、器具の性能の闘いになっては、いけない。
今後は、そういった不公平感がない、純粋なスポーツの祭典にパラリンピック
が変貌することを期待する。